(平成29年)2月14日(火)

京都市 ・ 蓮光寺 / 旬風庵

蓮光寺の負別け阿弥陀如来像は、快慶の作。 快慶は1100年代から1200年初めに活躍した仏師。 負別け阿弥陀如来像は、快慶の最後の作品であると伝わる。 快慶がノミを置いてから後に、夢のお告げ通りに、翌日に東国から仏像の依頼に僧がやってきた。 僧も夢のお告げがあった。 そこで快慶は生涯最後の仏像を彫るに、一刀入れては三礼し彫り上げたが、あまりにも美しく可愛らしく渡すのが惜しくなり、約束の日に受け取りにきた僧に偽って渡さずにいた。 翌年、引取に来た僧に、偽りをあやまり、像を渡したが、今一度見たいと思い、快慶は僧の後を追いかけた。 追いついたところが、現在の大津市追分、そこで蓋をあけると、光明が放たれと紫雲がたなびいた。そして中には、一体だったはずの阿弥陀如来像が二体あった。 そこで、それぞれ一体づつ、背負帰った。 もう一体は、宮城県仙台市の個人所有で、負別如来、蓮光寺と同様の縁起を伝える。 滋賀県追分の地名は、負別から来ている、という説もある。

文化庁から調査に入ったが、国宝でも重要文化財のも受けていないのは、ご住職に寄ると、仏さんに尋ねたところ、このままでいい、ということであったので、指定を受けなかった。 指定を受けると、信仰の対象から、鑑賞の対象になってしまう、それは本来のあり方ではないから。

蓮光寺の開山は、1492年、コロンブスが新大陸を発見した年。 最初は萱堂であったが、大阪城を再建した中井大和守がスポンサーで蓮光寺が建てられた。 最初は新町にあったが、秀吉の区画整理で、現在の場所に移った。 京極は、京都の果て、に寺を移転させた。洛中洛外。下寺町通り 400年前にここに移ったときの住職が、蓮光上人。

長曽我部盛親の墓がこの蓮光寺にあるのは、蓮光上人と長曽我部盛親に親交があった。 *一般的に、長宗我部、という字であるが、寺では、上記を使用している。 長曽我部盛親 生誕 天正3年(1575年) 死没 慶長20年5月15日(1615年6月11日) 住職の話しぶりから、盛親が蓮光上人を親のように慕っていたようにも思える。 長曽我部盛親が、1615年の大阪夏の陣に敗け、六条河原で斬首されたので、蓮光上人が寺に葬って供養した。 盛親の遺品も寺に伝わる。 長曽我部は敗者であったため、縁者は名字を変えて暮らしていたが、最近、ようやく見直され、名乗り出る人が、寺を訪れるそうだ。

駒止地蔵尊は、平清盛の乗った馬が動かなくなったところに埋まっていた地蔵像。 平清盛 生誕 永久6年1月18日(1118年2月10日) 死没 治承5年閏2月4日(1181年3月20日) 六条河原の刑場にもともと祀られていたと伝わる。大きな地蔵像である。境内の地蔵堂に祀られている。

旬風庵は、店に入ると、ネコの置物や、ネコの小物があちこちに飾ってある。 シェフがネコ好きだそうで、もともとは野良猫を保護したところから始まっているそうだ。 料理は、和食の要素を取り入れたフレンチ。かなり◎です。