平成30年11月13日(火)

京都市 弥勒院と吉田山荘

弥勒院

開山して約300年、現在地に移転してから約100年。京大病院のあたり東大路にもともとはあって、道路拡張で移転した。

本山は聖護院。前住職は昭和25年生まれ、山伏。春は葛城山、夏は大三輪山、富士山、など山に行っているのが、住職の仕事。役行者関連の山に登っていた。

今年は、太宰府、宝満山(ほうまんざん)、岩場のすごいところ、石鎚山(いしづちさん)。播州の雪庇鉱山(せっぴこうざん)など。 元は、長泉寺(ちょうせんじ)で、これが始まり。在家の山伏が発心をして建てた。その頃「水垢離(みずごり)」という信仰が流行っていた。富士山を遥拝してご祈祷をしていたのが始まりだった。明治になって、明石の弥勒院を合併して弥勒院となった。それまでは、お堂だった、それまでは、ご祈祷で生計を立てていた。

明治4年~明治18年は、修験道が廃止されていた。

息子が五代目、聖護院に勤めている。

聖護院の末寺が150~160ヶ寺、ちゃんと活動しているのが100ヶ寺ぐらい。明治までは、三万ヶ寺くらいあって、全国に数万人山伏がいてた。聖護院に。明治の廃仏毀釈で、末寺は農家、神社、他宗派に移って、残ったのが、300~400。檀家組織のない寺なので、食べていけなくなって、残っているのが、150~160。うちは、本山に勤めることで維持できた。

三室戸寺、宇治平等院。

立ち退きのおかげで、本堂を広くできた。それまでは、今の3分の1程度だった。

明石の弥勒院は、明石藩の祈願寺。明治に後継者がなくなり、ここを合併した。明石の弥勒院は、高い位置にあった。
①門跡②院ぜき③せんたつ④ねんぎょうじ

明石は④ねんぎょうじ、くらいの寺だった。明治維新で後ろ盾がなくなって、やっていけなくなった。私(前住職、話者)の妹が明石に嫁いだ。魚の棚に近いところにあった。明石の弥勒院の仏さんは、神戸に移されて、神戸で空襲にあって焼けた。今の仏さんは、長泉寺からの引き継ぎ。

表の地蔵尊は、戦前に、京都室町の商家にあった地蔵さんを預かった。お堂の中で祀っていたが。元の持ち主の親族と話をして、譲り受けた。表には、もともと土蔵があった。昭和50年頃、地蔵さんだから、表に祀ったら、という話がでて、昭和55年頃に、風で、壁がぱったりと、そこだけ倒れた。京都市内で被害があったのは、その壁だけ。それで、これは、と思い、土蔵を潰して、表に祀った。お地蔵さんを表に出して、横に護摩堂を作ったところ、お地蔵さんのひたいから顔に傷がはいってきたので、修理したら、もとの端正な顔がでてきた。

横のい不動明王の画像が本尊。ここの本堂にある不動明王の画は、ねぶたの絵師。やしまりゅうせん。青森で護摩、修験道を復活、そこで話が通じて、絵を描いてもらうことになった。山伏問答を青森でやって、迫力があると、評判になった。

毎月18日、護摩をたいている。4月には花祭り、8月には精霊送り、鴨川で流していたのをやめて、お寺でお供物を預かるようになった。
8月28日にさいとごま、庭で護摩をたいて、100人位の山伏が来る。もともとは聖護院の末寺、大悲山峰定寺(ぶじょうじ)京都北。藤原信西(しんぜい)が建てた寺で、ここは住まいだった。父の代(3代目)になってから、なんかせな、ということで始めた。

本尊の厨子の前に鏡、大日如来は、毎年8月28日のみの御開帳。役行者は金仏。聖護院と同じデザインなので、聖護院と同じ時期に作られたのでは、と思う。

むかって左端にある弁天さんと周囲は童子、弘法大師空海が、護摩をたいて、その灰で作った。後ろに左手の手形がくっきりと残る。以外に小さい。今の女性くらい。右側の頭の長い上人像は智証大師。

吉田山荘

東久邇宮、昭和天皇の皇后良子の弟、、青蓮院御門跡、103歳、の御学問所として、昭和7年に建てられ、昭和23年に料理旅館となった。家紋は後ろ菊。

玄関たたきのタイルには、模様、ステンドグラスは、銅鏡をデザインし、今日の食事の部屋、庭が見える2面に窓のある部屋のシャンデリアは、これを模したもの。

現在の女将さんは、京古(きょうこ)さん、がめいは、京黄(きょうこ)の父は、しながわてつざん。
待合にかかる書は、響き、比叡山のかんちょう。
テーブルの上には、一人ひとりに異なる歌が、女将さんの書によって、置かれていた。女将さん、お手書きの書です。一人ひとり内容が異なっていました。 私のものは、これでした。

朱雀院の 奈良におはしましたりける時に、たむけ山にてよめる
「このたびは 幣もとりあへず 手向山 もみぢの錦 神のまにまに」
菅原道真 『古今和歌集』

葉皿料理は、皿が葉の形から。


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